所在地: 佐賀県唐津市相知町
JR唐津線相知駅の西 1.5km、徒歩 20分です。

松浦川と巌木川の合流地・天徳の丘運動公園の下に、大小 58体の仏像が半肉彫りされています。
境内?に入ると、右手奥の中央が少し窪んだ岩壁の両側に立つ持国天と多聞天に先ず目が奪われます。
不釣合に大きな足、カッと目を開けた甲冑姿の持国天と多聞天は見物です。
その岩壁の中央部分には小さな十一面観音、その右に髪を逆立ち両牙を上に出した醜面の不動明王を刻んでいます。

空海が唐で修行した後この地に立ち寄り、弥陀・釈迦・観音の三尊を刻んだのが始まりと云われていますが、その三尊は現存しません。

相知町教育委員会の説明板をそのまま転記します。

 

鵜殿石仏群(佐賀県史跡指定)

文禄三年に書かれた鵜殿山平等寺略縁起によれば、弘法大師空海が唐(中国)にて密教を学び大同元年(八〇六年)に帰朝、松浦の地に着岸され当地に立ち寄られた。
空海はこの地が漢土霊域にも劣らない法地であると、先ず中央の峭壁に観音・弥陀・釈迦の三尊を彫刻されると、異様の人が忽然として現れ、巌壁ごとに一切の諸菩薩、或いは諸天の形像を加刻して消え去った。
その後、入唐八家の一人 小栗栖常暁が、淳和天皇の天長年間(八三〇年代)に洞窟内に鵜殿山平等寺を建立された。
仁明天皇承和二年(八三五年)には常暁の門弟が、空海作の薬師如来並びに日光・月光両菩薩像を安置した。
以後、真言秘密の法窟として庶民の信仰はもとより、殊に上松浦党主岸嶽城主累代の尊崇は厚かったという。
しかし、天文年間(一五四〇年代)の龍造寺氏との戦いで灰燼と帰したので、元亀年中(一五七〇年代)に地頭の久我因幡守が之を再建し明王院と号した。
(明治初期まであり、本尊薬師等は妙音寺に移す。)

今日では、かっての大洞窟も天井崩壊し、露天となり、昔日の面影としては、密教色強い石仏群のみである。
建立年代については、学者の間でもまちまちで定説はない。
しかし、相当長い年月の間に、人々の信仰に沿って加仏されていることから、古くは平安から室町時代にかけてのものであろうと云われている。

相知町教育委員会

 

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