古くから 「北条の石仏」 として親しまれてきた羅漢寺
JR加古川線と神戸電鉄粟生線の「粟生」駅で北条鉄道に乗り換え終点 「北条町」 駅下車です。
この北条町駅でレンタル自転車を借り、道路を挟んだスーパー左脇の観光案内所でイラストマップを入手、効率的に市内散策ができました。

羅漢寺入口には可愛い姿の仁王像が出迎えてくれます。
そして、境内奥には 「凹」 文字を逆さにしたような土盛りステージ?があり、400体余の羅漢像が肩を寄せ合うように立ち並んでいます。
高さ 1m弱の角柱石材に頭部だけ丸く刻み、肩から下は申し訳程度に手や持物を刻んだ不思議な眼差しの羅漢像です。
ステージ中央正面などに、半肉彫りした菩薩像や如来像などが 20数体?違和感なく立ち並んでいます。

北条鉄道沿線、のどかな風景の中は古文化財の宝庫?、通過駅ホームの観光案内板が後髪を強く引いた。
我が国最古の石仏「如来三尊像」や「石棺仏」が多数観れそうです。

北条石仏(五百羅漢)について
説明看板を転記します。

茫洋とした過去の歴史のなかに深い謎を秘めてきた北条石仏群。 切れ長な眸にたたえた憂愁のかげが、何やらその謎を秘めているかのようです。
この石仏を訪ずれる誰もが 「いつ頃、だれが、何のために」 これを造ったのかを知ろうとします。
しかしながら、これに答えうる史実も資料も、たしかな言いつたえもが、何ひとつとして存在しないのです。
石彫の手法としてはきわめて拙なく、それゆえに、その稚拙な素朴さを愛し、何か郷愁めいたあこがれをさえもって、人びとはその真実を探ろうとするのですが、訴えるような眸をみせていて、しかもこの石仏たちは、黙々として何ごとをも語ろうとはしません。
この石仏の謎は、あるいは永遠の謎であるのかもしれません。
またそれでよいのだとも思います。
もともと、石仏を造立することは、亡き先霊を弔う純粋な信仰心の表れであります。
この石仏群にしても、何百年かの昔 (慶長15・17年在銘の遺品数個あり) 戦争か飢饉かで、無惨な死を遂げた人がたくさんあってそれを当時の、縁故の人、もしくは、のちの篤信の人々が、やむにやまれぬ信仰心の発露から、これを造立して、その惨死者たちの霊を追弔供養したものと考えては、単純すぎるでしょうか。
彫技はたとえ稚拙たりとはいえ、石仏五百を造立するために、そこにこめられた、哀しくも美しく澄んだ信仰心に思いおよぶとき、しんとひきしめられるほどの、ひたすらな古人の純粋さにおののかずにはいられません。
同時に、いまは、永い風霜にいたんだ石造遺品にすぎないとしても、幾百年まえ、先霊供養を志して、これの造立悲願をかけた人の心に参入し、静かに こうべを垂れ、しばらくその昔に思いをめぐらすほどのことがあってほしいものだと思います。
ともあれ、色はさび、姿は風化して趣きとみに深いこの石仏を 「野趣ゆたかな野の仏」 として、閑寂の昔を偲びつつ鑑賞して頂き、風変りな珍しい石仏であったとご留意していただければ幸いと存じます。

五百羅漢(北条石仏)周辺のホテルはこちら